雑記

年の初めに

年が明け2018年。

1/3に昨年も参加(?)したイベントに行って来ました。

「Here I am」という年初の所信表明をする感じのイベント。
企画しているのは20代前半の若者達です。

昨年はプレゼンテーション形式でしたが今回はワークショップ形式。

高校生からアラフォー社会人まで、仕事も環境も違う20人ほどがワークショップを通じて2017年を振り返り、2018年はどうありたいか、に気づき言葉にしていきます。

人によって目指すものも表現も様々、「いつもと違う誰かと話をする」ことはそれだけで刺激になります。



◯去年はどうだった?

そういえば去年の今頃はどうだったろうと年初に書いたブログを読み返してみました。




「活法や合気道に興味がある、価値を見出してくれる人により多くの情報を届けたいと思います。」

なんてことを書いていましたが・・・昨年書いたブログは26本。

夏までは比較的順調だったものの徐々に失速。そして9〜11月は何も書いていないという体たらくぶり。

原因はハッキリしています。

昨年の秋は、いい年したオッさんのくせに色んなことが嫌になり、情報発信をスッパリ止めた時期でした。

ブログに関して言えば、開始当初から周囲の反応を考え、本音を少し差し引いた内容のものを書き続けていました。

読んだ人から「面白かった」とか「勉強になった」という感想を頂いたこともありますが、自分の中では上辺だけの文章を書いている感じしかしません。

少し人間関係で悩んでいたこともあり、段々とブログを書くのが苦しくなってきたので、しばらく休むことにしたのです。




◯現実の中に転機があった

12月に入る頃から徐々に人や本の影響を受け、自分の中に情報発信の熱が再び沸き始めました。

youtubeやツイッターなどを見ていて危機感を感じたのも理由の一つです。

インターネットで情報が簡単に手に入るようになった現代にあっては情報発信をしていないものは存在してないものと同じような扱いです。

情報発信の量が多ければそれだけで正統なものとして多くの人の意識に残ります。


私が学んでいる合気道は開祖が最晩年まで研究されたもので、伝承者が少なく、同じ原理の動画や解説はネット検索をしてもほどんど見つかりません。

活法や整動鍼に至っては東北にはほぼ私1人しか使い手がいない状況です。

どんなに素晴らしいものを持っていたとしても、情報発信しなければ、学びたい人、治療を受けたい人には届かず、いないのと同じです。

開祖が追い求めた真の合気道にしても、活法・整動鍼という治療業界をひっくり返すほどの可能性を秘めた技術にしても、自分の中にある以上は地元で生かしたいし、東北でも生かしたい。
しかしそれを可能にするには情報発信があまりにも足りな過ぎる。

そんな現実が何となく自分の中で実感になってきました。




◯そして今年は?

というわけで今年は情報発信を増やす年にしようと決意しました。

他人に任せていてはいつまで経っても自分の思う世界にはならなそうです。

多少の批判は恐れず、このブログでも自分の思うことを堂々と書いていこうと思います。



あとは・・・少し痩せよう・・・



読んでくださる皆様、今年もよろしくお願い致します。

定義の違いに気づけ!

言語というのは便利なもので様々な情報を自分以外の人間に伝えるツールになります。

しかしながら同じ言葉であれば1対1対応で同じ意味を表現しているわけではありません。

人によって言葉の定義が微妙に異なることが多く、それを放置したままにしていると話が噛み合わなくなってきます。


ここでいう言葉の定義とは「その人がその言葉をどういうニュアンスで使っているか」ということになります。

言葉の定義はその人の知識、教養、経験から生まれます。

つまり相手との知識、教養、経験の量、質、幅などの要素の差があればあるほど、お互いのコミュニケーションは成立しづらくなります。



例えば最近よく使われる言葉に「力を抜く」「脱力」という言葉があります。

「脱力」の辞書的な意味を調べると「力が抜けること」とありますが、これを「力を抜く」と同じ意味かと問えば、人によって同じという人もいるし、違うという人もいるのが現実です。

ちなみに私は「意味が違う」と考えていて、説明の時には使い分けています。

「力を抜く」は能動的な行為であってまず「力を出す」ことが前提にあります。(「力が入る」のではないので注意)

「力を出す」ことで生まれる筋肉の反発力を吸収したり、緊張感をコントロールするのが「力を抜く」ことであると定義しています。

力が抜けてもフニャフニャ、グニャグニャになったり姿勢が崩れることはなく、力を抜いた状態でも動けるのは必須です。

一方「脱力」はフニャフニャ、グニャグニャの状態で、その状態では動きは生じないものと定義しています。


一般的な感覚で表現すると

力を抜く = 制御可能 = リラックスした体

脱力 = 制御不能 = 気を失った人の体

に近い意味で使っています。



この定義が正しい、間違っているという議論には意味がありません。

正しいか間違っているかを考えてしまう人は言葉に振り回されているだけです。


当然違う意味合いで「力を抜く」「脱力」という言葉を使っている人もいると思います。

細かいニュアンスを考えずに使っている人もいると思います。

しかし、技術として「力を抜く」「脱力」を考えた場合、その言葉を当てはめた技術の細かな定義を持っていないと稽古も質問も議論もできません。

また、その技術を知らない人との会話の中で、自分の持つ定義を相手に伝えないまま話していても理解されづらい上に噛み合わなくて口論になる、などということもよくある光景です。




話を聞く中で相手の言葉の定義を読み取っていくことは昔から「行間を読む」という言葉で表現されています。

これは言語・非言語を問わず相手の言葉や言葉の裏に秘められた様々な情報をを読み取ることであり、時に見せながら、時に隠しながらコミュニケーションするのが「駆け引き」で、これは「見切り」や「以心伝心」にも繋がります。

「言わなくては分からない」「説明がなくては分からない」は武道として遅いと言わざるを得ません。

武道に限らず、商談や渉外、詐欺行為においても言えることなのではないかと思います。




ここまで読んで「意味が分からん!」という方は何回か読んで行間を読み取って頂ければと思います。

歴史を紡ぐ夏

8/15,16は私の地元、横手のお盆夏祭りでした。

普段の町の様子からは想像もつかないほどの数の人がお祭り会場に繰り出していました。




毎年8月15日は盆踊り。







16日は屋形船の繰り出し。






どこの地域も似たようなスケジュールで盆踊りや夏祭りが開催されていると思います。

横手の夏祭りは、私が物心ついた頃にはもう当たり前のように行われていました。
時代は変われど、年に一度の祭りを毎年楽しみにしている人は少なくありません。
7月中頃から夕方にお囃子の練習の音が聴こえてくると「今年も夏が来たなぁ〜」とぼんやり感じます。


横手の屋形船のルーツは享保の大飢饉(1732年、将軍徳川吉宗の時代です)で亡くなった方々の魂を供養するためのものだそうで、もう300年近い歴史があります。


一方、8/5には今年から始まった、高校生をはじめとする若い世代と地元の個人店主との繋がりを作るイベント赤門祭、8/20には今年で7回目となる野外音楽イベントYOKOTE音FESTIVALが開催されました。



赤門祭は100年続く祭を目標に掲げています。




YOKOTE音FESTIVALは毎年参加者やボランティアスタッフが増え、横手の夏の風物詩としての存在感を増しています。


写真は静岡から参加したエンタメバンド「ラディアルレイズ」





「不易」と「流行」という松尾芭蕉が見出した理念があります。

不易とは時を超えて不変の真理、流行とは時代や環境の変化で変わる法則のこと。

どんなことであっても長く続けるというのは簡単なことではなく、長く続けるためには流行を追いかけながらも不易を見出し、生み出していくことが欠かせません。

いいとこ取りしたつもりでツギハギしても、その中に根幹となるものが無ければやがて廃れます。



横手の夏のイベントはどれも必要に迫られてやっているわけではなく企画・運営する側も参加する側も「楽しむ」ということが根幹にあります。

「笑顔で生き生きとした時間を過ごす」ことが世代を超えて継承されていくものと思います。




私が現在学んでいる活法はルーツが戦国時代ですから、横手の送り盆よりも100年長い歴史を持ち、今に伝えられています。

一方、活法から生まれた鍼灸技術、整動鍼は世に出てまだ3年、赤門祭とYOKOTE音FESTIVALの中間くらいの年数です。

どちらにもその治療効果の高さと即効性、持続性から「術者も患者も笑顔になる」という価値を全国各地に生み出しています。


治療業界で「不易」となるか「流行」で終わるかは継承した1人1人の腕にかかっています。

横手の夏はもうじき終わり、暑さも落ち着いてきますが、活法・整動鍼の熱い時代はまだ始まったばかりです。

宮部みゆき著「荒神」を読んでこんなものを思い出した

遅ればせながら先日、宮部みゆき著「荒神」を読みました。

宮部 みゆき
2017-06-28




小説は読み始めると他のことを全て放っておくダメ人間になるくらいに没頭しやすいので、最近あまり読まなかったのですが、今回なぜわざわざこの小説を読んだかというと、単純に作品の中に碓井流活法が登場するからです。

活法研究会内のブロガー鍼灸師達も「荒神」についてをブログの中で書いています。





「荒神」は朝日新聞の朝刊で2013〜2014年に連載、単行本が刊行されたのは2014年ですので、上記のブログ記事は数年前のものです。

私は今回文庫版が発売されたので、新聞掲載時の挿絵を本にした、こうの史代著「荒神絵巻」と一緒に購入。


こうの史代
2014-08-20




この2冊、今まであまり本屋で見かけなかったのですが、2018年1月にBSでのテレビドラマ化が決まったらしく、その番宣のために本屋に山積みになっていました。

おそるべしドラマ効果・・・。



話の中核を担う「怪物」をどう映像化するのか、絡み合ったプロットをどう解きほぐしてオリジナル要素を出していくのか、それともそのまま映像化するのか、配役は誰になるのか・・・色々興味は尽きませんが半年後を楽しみにしたいと思います。



さて「荒神」についてあれこれ語りたいところではありますが、書き出すと完全にネタバレブログになってしまうので、今回は「荒神」を読んで私が連想した小説や映像作品を紹介したいと思います。






「ジェヴォーダンの獣」




いきなりマニアックな感じのものからいきます。

18世紀のフランスジェヴォーダン地方で実際に起こった謎の怪物による殺戮事件を基にしたフィクション映画です。

映画は謎の怪物による犠牲者が増える中、一人の博物学者が王命で派遣され、その正体に迫っていく、というもの。

正体不明の獣の存在や、そこにまつわる様々な人間の思惑や人間関係は「荒神」の大きな流れと似ている気がしました。

ミステリー要素も含みつつ、アクション要素も存分にあり、主人公の博物学者とその相棒が、獣やそれ以外の敵と戦うシーンはかなりカッコイイです。

ちなみにこの主人公、なんとなく荒神の登場人物、榊田宗栄を思わせます。

活法は使いませんけどね。





「ゴジラ」シリーズ

怪獣というと日本人が真っ先に思い浮かべるのはやはりゴジラだと思います。

中でも「荒神」と似た感じを受けるのは第1作目の「ゴジラ」と「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」です。

宝田 明
2014-04-23






第1作目の「ゴジラ」では、海に住む伝説の怪物「呉爾羅(ゴジラ)」の伝承があり、当初はその体の一部と襲われた村の様子が描かれます。

「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」ではゴジラに対抗するため、日本各地に封じられた護国聖獣モスラ、ギドラ、バラゴンを目覚めさせます。

ゴジラは常に「戦争」や「核兵器」などのテーマを踏まえていますが、そうしたテーマや昔の伝承が現実のものとなるというあたりに「荒神」と似たものを感じました。

それにしてもタイトルに名前を出してもらえない上、登場してからあっという間にゴジラに倒されるバラゴンが可哀想・・・(笑)





「帝都物語」

そしてこれです。




巨大な怪獣は一切出てきませんが、式神や鬼の類、陰陽道、風水、奇門遁甲など、サブカル魂を揺さぶられる要素がてんこ盛りの作品です。

私は映画の方を先に観ましたが、嶋田久作さんの加藤保憲役がハマり過ぎていて、内容よりも加藤保憲の存在感に目がいってしまいました。



平将門の怨霊により帝都東京の破壊を目論む魔人加藤保憲とそれに立ち向かう人々との攻防を描くこの作品は、陰陽道や風水の要素の色濃い影響と、様々な登場人物の思いや人間関係が入り乱れ、独特の世界観を構築しています。

映画版の、土御門家の平井保昌(平幹二朗)の元を渋沢栄一(勝新太郎)が訪れるところから始まる冒頭のシーンは、圧巻であるとともに帝都物語の世界観を凝縮していて結構好きです。




これらの作品を紹介しただけで既に「荒神」のネタバレをしてしまっている気がしなくもないですが、「荒神」を読んでその設定や世界観が好きだと感じる人なら楽しめる映画ではないかと思います。

「荒神」自体は読み応えがあってかなり面白いですし、一気に読み進めてしまうくらいに引き込まれる作品ですので、気になった方は是非!

爪で感じる「技」

鍼灸師は患者さんの体に触れる仕事です。

鍼灸師に限らず、およそ治療だとか施術と呼ばれるものを生業としている人は他人の体に触れる、ということを避けては通れません。

鍼灸師の手は患者さんの体の状態を読み取る感知器であり、鍼灸師自身のことを患者さんに伝える伝達器であるとも言えます。


その中でも指は特に細かいレベルの機能が求められます。
そのため指の状態に気を使う鍼灸師は多いと思います。

突き指しないように球技はやらない、刃物で傷つけないように料理はしないなんて人もいますし、中には普段は手袋をしていて余計な情報を読み取らないようにしている人もいます。

手袋の件に関してはApple社のジョブズやフェイスブック社のザッカーバーグが決断疲れをしないように日常の決断の回数を減らすためにいつも同じ服を着ていた、というエピソードに通ずるものを感じます(今回はそういう話ではないのでこれ以上は深めません)。

日常生活レベルから指の感覚のケアを意識する人もいる一方、さほど意識せず生活している鍼灸師もいます(むしろこっちの方が多い)。

意識しないことは悪いことというわけでもなく、指で様々な情報に触れるため、自然と感覚的な部分のトレーニングになるという側面もあります。

どちらのタイプの人でも最低限このくらいのことは意識している、というラインがあります。

それは・・・


「爪の長さ」です。



昨今は女性はネイルをする人が多くなりましたが、ネイル以前に爪そのものが美容面でのケアの対象になっていると感じます。
爪のツヤや形も大事ですが、その長さも大事なポイントかと思います。
男性の場合はネイルする人はほとんど見かけませんが、身だしなみとして切りそろえておくことが当然となっています。

鍼灸師はというとツボをとる際にどうしても指は使いますし、ツボにも体の表面に近いツボ、深いところにあるツボなど色々あるので、ただ触れるだけの時もあれば、指を深く沈めることもあります。

そんな時に爪が伸びていたら患者さんとしては爪の固い感触を感じたり、爪が食い込んで痛いことも多くあります。
そのため、鍼灸師は患者さんに不快な思いを与えないように、日頃から爪のチェックを怠らず、常にやや深爪気味の人が多いのです。

そうなってくると爪を切る道具にもこだわりが出てきます。

私がここ数年足を運んでいる活法研究会会員の多くが買い求めて愛用している爪切りがあります。




それがSUWADAの爪切りです。


「爪切りなんてどれも同じでしょ?」と思う人もいるかもしれませんが、ところがどっこい使ってみると大違いです。



爪切りも刃物の一種。

刀に名刀となまくらがあるように爪切りにも切れ味の違いは確実にあります。


SUWADAの爪切りはニッパータイプ。

普通のニッパー持ちでも使えますが、持ち方を変えると普通の爪切りのように使えます。


切れ味は音に現れます。

普通の爪切りでは「パチン」という音がします。

SUWADAの爪切りは「カツッ」という感じの小さな音がします。

参考に以前「鍼灸師のツボ日記」でアップされた動画をどうぞ。

こちらから。

動画はリンク先の中央あたりにあります。


切るときに指に伝わる感触はもっと明確に違います。

普通の爪切りだと表裏から爪の表面を挟んで力を加え、そこからいきなり爪を切断して刃同士がぶつかり合うような感触が伝わってきます。

SUWADAの爪切りは最初に爪にスーッと刺さっていくような感触があり、最後の固い芯を瞬間的に裁断している感触があります。

鉈(なた)と包丁の違いと言えばいいか、ハサミのカミソリの違いと言えばいいか、とにかくSUWADAの爪切りには鋭利な刃物が爪に入り込むような感触があり、爪の固さによる抵抗が少ないのです。

まさしく名刀という感じの逸品です。



某漫画で「戻し切り」という、切断面がピッタリ合って元に戻せる切り方のできる業物が登場していましたが、SUWADAの爪切りを使ったとき何となくその「戻し切り」を連想しました。



爪を切った後、ヤスリがいらないくらい滑らかなので戻し切りできそうな気がしたのです(実際はできません)。



また、その刃の鋭利さと造りの精密さはその姿にも見てとることができます。

刃を合わせたときその隙間がほとんど見えません。まるで連続した曲面のようです。




爪切りとしてはかなり高価な部類ですが、日々指先に気を使う鍼灸師としては、持っておいて損はないと思います。



爪切りの機能もさることながら、人の手による精巧な技術に日常的に触れることは、精密なツボ取りを求められる鍼灸師にとってはそれだけで価値あることです。

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