何らかの技術や能力を身につけようと思えば当然、時間がかかります。
技術と同等の成果を簡単に手に入れる方法があります。
それは「道具」を使うことです。

近年、家電などはどんどん機能が高度になり、お米の量から水の量まで教えてくれる炊飯器やポピュラーな朝食メニューを一気に調理できるレンジなど、人の手をほとんど介さずに済むものが増えています。
車も自動運転の技術が進み、いずれ人が運転しなくてもいい時代が来るのかもしれません。

道具は確実に技術と同等の成果を得やすくしています。




治療において鍼灸師の使う道具は素手に比べて大きなアドバンテージがあります。
私が学んでいる整動鍼は鍼という道具によって、活法と同じか、時にはそれ以上の成果を出す場合があります。
もちろん場合によっては整動鍼よりも活法の方が成果を出しやすい場合もありますが、体の使い方などの部分が重要になる活法と違い、鍼を刺すという行為のみで同じような成果が得られると考えると、整動鍼は鍼灸師にとってとても魅力的な技術です。


武術においても武器の存在は重要です。

素手よりも武器の方が、誰でも高い殺傷能力が得られます。
一口に武器といっても鈍器より刃物の方がが、刃物より銃器の方が殺傷能力が高く、効率的です。

しかし、ここで気をつけないといけないのは道具によって得られるのは「技術と同等の成果」であって「技術そのもの」ではないということです。


銃を撃てるようになることで、刀を扱えたり、格闘術が身につくわけではありません。

果物の自動皮むき器しか使ったことのない人が自然にナイフや包丁で上手く皮を剥けるわけではありません。

整動鍼で治療ができるからといって、自然に活法の技ができるようになるわけではありません。

自分の体を使った技術はそれ自体を学ぶ必要があります。


古武術の世界では剣ならば剣だけ、槍ならば槍だけを学んでいたわけではなく、武芸十八般などという言葉があるように体術、武器術、馬術、水術などあらゆる場面で必要な技術が流派ごとに一貫性を持って体系づけられていたようです。

特に日本の武器は体術によって武器の真価を発揮できるように作られており、戦闘術の部分のみを取り出しても体術と武器術は一体のもので、稽古することで相互の技術が上達していくのは当然のこととされていたようです。

合気道では剣を体術に現したものとされています。体術、剣術、杖術の稽古が互いにそれぞれの術を引き上げてくれます。
初心者はには全く別のものと映るようですが、稽古すればするほどその3つの技術は1つに収束していくのを実感します。


整動鍼と活法にも同じものを感じます。

活法の技術、それによって起こる体の変化は整動鍼におけるツボ選びの考えの組み立てに大いに役立ちますし、所作や作法、技の形などは患者さんの体に触れる上で大切なことを自然に学ばせてくれます。
また整動鍼におけるツボと体の各所の細かな連動を学ぶことは活法の技選びや技術の分析にも役立ちます。

治療というものの全体を見渡すと整動鍼と活法は1つのものであると感じます。


道具を介することで、大きな成果をたやすく得られる反面、体の使い方などの技術を身につける機会を失っているとも言えます。
道具によって仕事や生活が便利になる反面、運動量が減り、感性を磨く機会が減り、わざわざそれを補完するための道具やメソッドが作られるという不思議な状況もあります。

人間が生命を作り出せるようにならない限り、道具がどれだけ進歩しても人間の体を使う技術は色褪せないと思います。(それを汲み取る感性があること前提ですが)

活法も整動鍼も合気道も、まだまだ果たす役割は大きいはずです。