ツボと向き合い見えてくること

少し前になりますが、4/16,17に整動鍼セミナー取穴復習編に参加してきました。



◯ツボとひたすら向き合う2日間

今回のセミナーは整動鍼基礎セミナー、脊柱編、四肢編、腹背編の3編に登場したツボの取り方をひたすら復習するセミナーです。
すごく地味なイメージですが、このツボ取りというのは非常に奥が深く、面白みがあります。鍼灸治療ではかなり重要度の高い作業です。

鍼灸治療には大きく分けて3段階の過程があります。


①患者の体の状態を把握し、理論に基づいて治療の流れと使うツボを決める

②ツボの位置を正確に捉える

③鍼や灸を使い、治療する


①は様々な勉強会が重要視している部分です。各勉強会のアイデンティティが如実に現れます。五行論だとか陰陽論だとか、なんちゃら治療とかなんちゃら法などと命名されているものもほとんどがこの部分を伝えています。


②は今回のセミナーの内容であり、個人的には最も時間をかけて修練する必要があると思います。
というのもこのツボ取りこそが鍼灸の鍼灸たる所以であるからです。

③は「技術」と呼ばれる部分です。鍼を刺す、響かせる、抜く、灸をすえる、熱を感じる度合いをコントロールするなどの要素がここに当たります。



◯治療理論と技術

どんな考え方に基づいて、どのように患者の体を見、判断し、治療の流れを組み立てるのか?
非常に大切な部分であり、世の中のセミナーの9割以上はこの部分に関する内容ではないかと思います。
またネット検索して最もヒットするのがこの部分です。情報がネット上にあふれているので素人でもベテラン鍼灸師のごとくに語れる部分でもあります。
確かにここが大切なのは間違いありません。しかし、この部分だけ学んでも治療はできません。理論はあくまでも理論であり、治療の方向性を決めているに過ぎないからです。
この理論の部分は一般的には東洋医学と呼ばれる分野で、鍼灸に限らず、マッサージや湯液でも用いられます。
(湯液とはいわゆる漢方薬を使う治療ですが、現在広く使われている西洋医学的な漢方薬の使い方とは違います。東洋医学に基づくことで漢方薬は現在ある以上のポテンシャルを発揮できるはずです)

②は後ほど詳しく。

③は専門学校で主に学ぶ部分です。理論やツボの取り方が違っても、鍼の刺し方、つまり道具の扱い方、コントロールの仕方には基本的な形があります。経験を積むにつれ個人差は出てくるものの、統一したものが伝えやすい部分ではあります。

さて次はいよいよツボ取りについて。



◯ツボ取りという大事

経絡に基づく鍼灸治療において、大抵はツボの位置が寸法によって決められるものの、鍼を刺す上での厳密な位置は個人の感覚に委ねられています。
つまりは治療する人によってツボの位置が違うのです。
ある鍼灸流派の指導的立場にある10人くらいの先生方が統一した基準を作ろうとしてまずは全員で孔最というツボをとったら全員が違う場所になったというエピソードもあります。
ではそれが間違いかというと各先生方は全員が全員その治療法で成果を出しています。

ツボの位置が個人で違っても治療として結果が出れば間違いではありません。ですが技術を伝えるためには余りにも不確定要素が多過ぎます。
裁量が大きいとも言えますが、この部分の曖昧さは初学者が治療の成果を出しにくい原因であるとも言えます。


整動鍼の理論は活法が元にあります。活法に基づいて体を観察し、ツボの本来持っている力、つまりは体に及ぼす変化を正確に捉えることから理論が構築されています。
そういう意味では整動鍼においてはツボ取りから理論が構築されているとも言えます。

そのツボの正体は非常に明確で、体の変化にも再現性があります。例えば孔最というツボはこの位置にあるこの感触の反応である、というのが決まっていてそこに鍼をすると誰であっても同じ体の変化が起こるのです。

そんなものは当たり前と思うかもしれませんが前述したように1つのツボの取り方が人によって違うのが鍼の世界では当たり前になっています。
明確な方向性がないため、感性と経験という曖昧な言葉に従いながら、ある時は効果があり、ある時は効果がなく、という経験を繰り返しながら徐々に実力をつけていくのが当たり前でした。

整動鍼はこの曖昧さを実にスッキリと解決しています。そのため、初学者であってもベテラン鍼灸師と同じくらいの成果を出すことが可能です。その効果の高さゆえにセミナーは募集と共に数分で満席。別日に開催を増やしてもあっという間に満席になるという状態が続いています。



◯ツボ取りのレベルアップに必要なこと

武道武術で例えるなら道具の扱い方は武器の扱い方です。ツボ取りは相手の隙を見つける部分であり、武器の力を十分に発揮するためにはこの部分がとても大事です。
同じ道具を使っても体の使い方のレベルによって扱い方のレベルも違えば隙にうまく合わせて攻撃できるかのレベルも違ってきます。


整動鍼は理論を伝えます。扱う武器は鍼。ツボ取りはそれらを生かす上で重要ではあるものの、ツボ取りをするための体を養うのは簡単な事ではありません。
ツボを取り、鍼を刺すための体を作るのは体術である活法です。
ツボ取りをしていると活法の重要性が身に沁みます。

他の方を見ていても、整動鍼だけを学んでいる方より、活法と整動の両方を学んでいる人の方が動きや感覚に繊細さがあり、治療全体の視野も広いように思います。

人体という広大な世界にある一点のツボを選ぶ。宝探しのようなもので、ヒントも何もなく探すには途方もない困難さです。
それをガイドするのが整動鍼の理論であり、探し当てるセンサーが自分の体であり指先、センサーのスペックを高めるのが活法であるとも言えます。

整動鍼の話のつもりだったのに活法の話みたいになってしまいました。でもいいんです。表現の仕方が違うだけでどちらも同じものですから。

本物は万事に通ずるものです。

絵の余白

最近活法と合気道の話題ばかり続いていたので今回は別の話題にしようとしてiPhoneを手に取りました。(私はブログ記事は全てiPhoneで書いています)


しかしいざ最近頭に浮かんだことはというとやはり活法と整動鍼と合気道の話ばかりです。
恋愛の話だとか最近流行のものの話でもすればいつもと違った人が読むかもしれませんが、その方向には極端に疎く、話題が一切広がりません。

あとできそうな話というとゲームの話でしょうか。ゲームというと私の中ではFFとFEが二大巨頭です。

FFは言わずと知れた「ファイナルファンタジー」シリーズ。
FEは分かる人は分かる「手強いシミュレーション」ですね。




そうそう、FFと言えば先日ここに行ってきました。


天野喜孝・弓彦親子によるファンタジーアート展です。


今ではFFシリーズのⅦ以降しか知らない世代もいるはずなので、「FF=天野喜孝」というイメージを持っているのはアラフォーかそれより上の世代かもしれません。


会社が潰れそうだった1980年代のスクウェアがこれが最後になるかもと思いつつ、社運を賭けて発売したのが第1作目の「ファイナルファンタジー」だというのは有名な話ですが、現代と違い、当時のゲームは情報が少なく、CMとか箱の絵柄が買う際の決め手になっていた節もありました。いわゆるジャケ買いというやつですね。
そこでスクウェアが依頼したのが天野喜孝さんだったわけです。






天野喜孝さんはタツノコプロで「タイムボカン」なんかのキャラクターデザインをし、後に独立。人気も実力もある絵描きさんで、小説の挿絵なんかも多数手がけています。
今回の展覧会のイメージ絵にもなっている菊地秀行さんの「吸血鬼ハンターD」シリーズや、マイケル・ムアコックの「エルリック・サーガ」をはじめとする「エターナル・チャンピオン」シリーズなんかの挿絵が有名ですね。




ちなみに最近のファンタジー系ゲームに出てくる武器の1つ、ストームブリンガーはこのエルリックサーガが出典です。




今回の展覧会で並んでいたもののほとんどは石版画によるもので、筆で描いたものと違って複数作っているとのことでした。200〜300枚限定のものが多いようです。


今回の目玉でもあり天野喜孝さんが海外で評価されるきっかけにもなった作品が「街〜エボキシ〜」という作品。

FF6の箱の絵と言った方が分かりやすいですね。



絵描きさんという人種は余白を埋めたくなるものらしいです。
確かにどんなに有名な絵であってもキャンバスの余白を残したままにしているものは少ないですね。

そしてファンタジーアートにおいて何らかのキャラクターを描くとき中央にキャラクターがいないというのもまずあり得ないそうです。

この「街〜エボキシ〜」という作品はその2つの常識を破りながら1つの作品として完成しているわけです。

この絵を観た人達が「ohh... it's amazing !!」と言ったかどうかは知りませんが、とにかくものすごい驚きと高い評価を持って迎えられたことは間違いないようです。


また驚くことに版画の原型となる元の絵は1日のうちに完成するそうです。
というのも、天野喜孝さんは頭の中で描くべき絵のイメージを完成させるまでに膨大な時間をかけ、描く時は休まずに一気に描き切るんだそうです。

何だそりゃ、と思ったものの、同じようにことに臨んでいる人達がそういえば割と近くにいました。


整動鍼は少ない鍼で治療します。そのためには思いつきで鍼をせず、患者の体の症状や状態を把握し、原因を解決できるツボを絞り込んで鍼をします。

つまり「ツボを使って患者が治る道筋やイメージが完成してから鍼をする」わけです。

治療がうまくいかない時というのはこのイメージがハッキリしていません。
逆に上手く行く時というのはイメージがハッキリしているので、ほぼその通りのことが起こります。


「準備に重きをおく」という考え方は孫子の兵法にも通じます。



元の才能が違うので同じような取り組み方をしたからといって天野喜孝さんのような絵を描けるわけではありませんが、絵、兵法、鍼灸と全く異なる分野から導き出される方法論というのは1つの真理と言っていいのではないかと思います。


絵を観に行ってまで結局治療に関わることを考えてしまうというのは、そろそろ人として問題がありそうな気もしますが、似たような人が全国にチラホラいるのを知っているので多分大丈夫でしょう。


まとまりがないですが今回強く思ったのは「余白を持てる人間」になりたいな、ということ。
余白を含んだままの完成は色で埋め尽くした完成より、少し余裕を感じます。

原理の裏に当然のようにある前提について〜活法と合気道⑥〜

活法の原理「同調と同化」と合気道の関係です。

まずは活法の理論より。



◯筋肉レベルにおける同調と同化

ここでいう異常部位とは筋肉の過緊張のあるところです。
全体をギューッと緊張させ、正常部位が異常部位と同じ緊張度になると脳は区別がつかなくなり同じものと判断します。
そこで一気に力を抜くと、全て同じように緊張が解けていき、異常な過緊張が無くなるというわけです。



これが合気道ではどう使われているかというと、相手に掴まれた時に行っています。

1番基本的な片手取りで説明します。
相手はこちらの動きを制するべく全力で腕を掴んできます。
こちらは相手と一体になり、フッと力を抜くわけです。そうすると相手の力も抜けてきます。
これが合気道における筋肉レベルの同調と同化です。



あれ?と思った方もいるかもしれません。よく分からないし説明になっていない、そんなの分かっててもできない、と。
まさしくその通りで、これを理論通りに行うには前提となる要素が沢山、ありすぎるほどあります。
ですが、前提を持たない人に理解できる範囲の説明は多分これが限界です。
実際の稽古ではこれを実際に体感し、真似しながら実践し、徐々に身につけていくわけです。
私自身最初に教わった時、説明はチンプンカンプン、実際に体感するとさらにチンプンカンプンでした。
しかし、それを面白いと思いながら稽古できる人でないと理解も再現もできないと思います。

合気道の動きは日常生活の延長線上にはありません。言わば自分の脳のプログラムを書き換える作業です。簡単でないのは当たり前なのですが。

少し前置きが長くなりましたが今回は「相手と一体になる」という部分を説明していきます。
今回は体の使い方にヒントが欲しい方向けです。




【長文注意!内容も多少難しいので納得した上でお読み下さい】






◯相手と一体になる

「相手と一体になる」というのは言葉通りで、相手との衝突がないだけではなく、意識や動きも一体にならないといけません。
一体であれば反発も抵抗もありません。

私が受けた掴んでいる側の感覚としては「掴んでいるのにその場が無いような感じ」がします。

この要素の大前提として掴まれる側の体が「体が一つになっていること」が必要になります。

「体が一つになっている」を分解すると「体のどこにも力みがないこと」と「体の動きが繋がっていること」、さらに「必要な部分が必要な動きのみをすること」が大きな要素になると思います。

それぞれ「脱力」「連動」「コントロール」という風に言い換えることができますが、言い換えるとニュアンスに誤解が生まれます。
このニュアンスの誤解は体感によってしか埋まりませんので深追いはしません。





◯脱力

体の使い方の要素として、世の中に脱力という言葉は溢れかえっていますがここでいう脱力はグニャグニャで自分自身の体勢を崩すこととは異なります。
前提として「動けること」があります。動けないものはここでは扱いません。

先ほど「体のどこにも力みがないこと」と書きました。
一般的にただ立っている人はどこかしら力んでいるものです。力んでいるのは筋肉です。筋肉の力みによって関節が固まり、ぐらつかないようにしているわけです。
しかしながらこうした状態は動く上では不利です。なるべくなら関節は緩み、筋肉も適度な張力を保っている方が動きやすいし、体の力も伝わりやすいので、そういう状態が必要です。

その状態が全身でできればここでいう「脱力」になります。





◯連動

体は各パーツごとに個別に動いているように考えてられがちですが、実際は指一本動かすにも全身の働きが必要です。
連動についても色んな方が述べていますが、ここでは「体の力を手足に伝えること」というに留めます。体の力とは中心力です。中心力の出ている源は臍下丹田なのか臍なのか意見は分かれます。個人的には臍の意識を持つ方が臍下丹田を使いやすいのではないかと思っています。正しいかは今後も稽古の中で研究していきます。





◯コントロール

先の二つに比べ、この要素は語られることがありませんが、個人的には脱力や連動を制御する要素としてかなり重要だと考えています。

背泳ぎでの肩の可動域を例にしてみます。水泳は素人なので間違っているかもしれません。詳しい方は教えてください。
背泳ぎの時の手の動きとして、水から出た腕は肩と骨盤の線上にまっすぐ伸びて入水します。背泳ぎができない人は腕や手先が肩より外側を通るために推進力がうまく出せません。
泳げない方の他、肩周りが固くなってきた高齢の方でたまに見かける動きです。
一方で体の柔らかい女子小中学生などは手先が肩より内側を通り自分の頭の上に伸びている子もいるのです。
体の軸を生かすことを考えると腕や手先は軸を乱さないように使うべきであり、内にいっても外にいっても軸は乱れます。
可動域が広くても狭くても、動きに必要な範囲で使えていなければ結局は同じ「できない」につながります。


体の動きはある程度脳にプログラムされていて、それを実行しているので、意識しなくても体の連動が起こります。
しかし同時に余計なブレーキや動き過ぎが起こります。この原因は何かというと、本来動く必要のない場所や筋肉が動いてしまっているのです。

動きをコントロールするためには余分な動きを見極め、その動きを作り出すために無意識に動いている部分の動きを制限する必要があるのです。





◯足し算と引き算

一般的に動き方の要素は「動けない部分を動かす」「本来出せる力を出す」などというように足し算の考え方が多いのですが、「必要な部分が必要な動きのみをすること」というのは引き算の考え方です。

足し算の考え方の方がが刺激や感動があり、エンターテイメント要素が強く、モチベーションも上がります。
一方、引き算の考え方は素朴で無味、エンターテイメント要素もありません。ここに興味が湧かない人が多いのも納得です。


体の動きの追求は真に「動けることの快」を追求しているとも言えます。
しかし足し算の要素ばかりだと気づかないうちに「動ける自分を承認する快」にすり替わり、動けない自分に目をつむり、他人や技術そのものを批判したり、体の動きの追求から生まれた精神性の追求のみに偏ったりします。
(自分もそういう経験があります)


足し算も引き算も両方あって初めてバランスが取れるのはどの世界でも一緒だと思います。

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