治療家に武術は必要か?


私が現在学び、臨床で使っている活法・整動鍼は武術が元になっています。
武術の原理や思想に基づき、相手を倒す表の技を殺法、相手を治療する裏の技を活法と呼び、表裏一体の技術として戦国時代から伝えられています。

ですが現代にあっては殺法いわゆる一般的な武術の稽古をしている人が治療を学んでいるケースは少ないですし、武術を学ぶ治療家も多くはありません。
一部の鍼灸師やマッサージ師、柔整師などで治療に「気」を利用する人が気功や太極拳などを学んでいる話は時々聞きますが、それほど多くはありません。
だからと言って治療ができないというわけでもなさそうです。

そもそも治療家に武術(殺法)は必要なのでしょうか?



◯まずは結論から

結論を先に言います。

治療家にとって武術は「学んでおくと絶対的に有利だが、必ずしも必要ではない」です。


どんなものであっても専一にずっと研鑽していけばいずれはその道の達人となる可能性があります。無論条件付きではありますが。
治療も例外ではありません。ただしそれには膨大な年月がかかりますし、誰もがなれる訳ではありません。
武術を学ぶとその道を少し早く進むことができます。



◯治療家が武術に求めるもの

治療家が何を求めて武術を学ぶかというと
「治療に必要な体の使い方を学びたい」
という一言に尽きるのではないかと思います。

「治療に必要な体の使い方」とは何かと言われれば、対立を起こさない相手への触れ方、姿勢の作り方、体幹から力を伝える手足の使い方、間合感覚、意識の使い方、といったところでしょうか。他にも色々あるのですが、言語化しきれない要素も沢山あります。


要素として分かっていれば武術を学ばなくても個別に訓練すればいいだけなのですが、治療技術と体の使い方をセットで教えてくれる場所がないから治療技術の向上のために武術を学ぶ治療家がいるのだと思います。

なぜ教えてくれる場所がないのか?それには理由があると思います。

活法は様々な治療法の源流であると考えられています。
活法の歴史的な位置づけやその性質にヒントがあります。



◯殺法が先か活法が先か?

現代では殺法と活法の両方を教授する武術の流派はそれほど多くありません。
数少ないそれらの流派では基本的には殺法を稽古し、技の身についた者が活法を学ぶケースが多いようです。
学ぶといっても形を教えられるだけで、その技を成立させる要素は殺法で学んでいるから、余計なことは言わなくていいようなのです。

殺法が表、活法が裏とされていることからも分かるように、武術にとってのメインは殺法であり、活法はあくまでも参考技法的な位置づけです。
武術は戦闘技術であり、武士にとっては職業技能です。戦場で敵を倒すと手柄になりますが、治療が上手くても手柄にはなりません。必然的に殺法の技術が磨かれていったはずです。
そして、殺法のこの技をこのようにすると治療もできる、ということが次第に分かってきて今に至るのだろうと思われます。

つまり学ぶ主体である武術(殺法)を修め、体の使い方の出来ている者が活法を学んでいたため、治療(活法)を単独で学ぶものなどいなかったと考えられます。

活法の前提には必ず殺法があります。それを抜きに活法を学ぶこと自体がかなり難易度が高いと言えるのです。

そう考えると武術を学んでいる方が学んでいないよりも絶対的に有利であることが分かると思います。


このように書くと活法に武術は必須のように聞こえます。
ここで言いたいのは「武術を学ぶと治療には絶対的に有利であるということ」ですが私の結論は「必ずしも必要ではない」です。


次回はその理由について述べたいと思います。

私が活法セミナーに通い詰める2つの理由〜活法基礎セミナー下肢編レポート〜

9/3,4と活法基礎セミナー下肢編に復習で参加してきました。


活法セミナーは入門、基礎、応用の3段階あり、各段階に3種類のセミナーが設置されています。

入門編は使用頻度の特に高い技、基礎編はピンポイントの症状に対応する技、応用編は使用頻度は高くはないものの知っておくと便利な技、という構成。


今回参加した下肢編は膝の治療に特化したセミナーです。

膝の動きに関わる周辺の筋肉、ハムストリングス、内転筋の調整をはじめ、側副靭帯、足底、半月板の調整、膝の水を抜く技、オスグッド病や変形性膝関節症の進行を止めるとされる技など、20手近くを学びます。

治療家が遭遇する症状と言えば、腰、肩、膝がトップ3で、そういう意味では比較的使用頻度が高い技の数々と言えます。

私は2016年の3月に修了したので約1年半ぶりの下肢編セミナーです。



懇親会の時に「おとなまき」をしてもらいました。





ここ最近、活法の技がセミナーの度に体に馴染んできていると感じています。

活法セミナーをコンプリートしたためか、合気道と活法の共通性が見えてきたせいか、合気道が上達したせいかは分かりません。

もしかしたら自分の勘違いかもしれません。

ですがセミナーに初めて参加した時には教わるのが精一杯だったのが、復習で参加した時は教わる以外の自分の気づきが多くなっているのは確かです。




◯キッカケは・・・

思い返してみると私が活法セミナーに参加したきっかけは2年前の「秘伝」というかなりマニアックな武術雑誌の記事。

様々な流派の活法が特集されていた中に碓井流活法がありました。


記事を読んですぐに「体験会に参加してみたい!」と思ったのを覚えています。

今にして思うと、原理や技の説明だけではなく、活法の思想、そして碓井先生の言葉の端々に、一般的なセミナービジネスとは一線を画する「本物の匂い」を感じたのだと思います。

その「匂い」の正体はおそらく合気道との類似性で、私が長く合気道をやっているからそう感じただけで、一般の方はもしかしたら「胡散臭い」と感じるのかもしれません。



実際に技を体験して、直感は確信に変わりました。

その全貌を学びたいと思い、参加可能なセミナーには全て参加し、運にも恵まれて丸2年で設定された9つのセミナーのコンプリートできました。

活法から生まれた鍼灸技術「整動鍼」のセミナーや復習で参加した回数を含めると、セミナー参加回数は30回近くになります。

もちろん1回10万円前後のセミナー代に加え、地方在住者は交通費や宿泊費の出費がありますし、人によっては仕事を休んで前入りする場合もあります。

決して簡単なことではありません。





◯通い詰める理由はシンプル

それでも短期間の間にこれだけのセミナーを受けたのには理由があります。



その理由の1つは「活法研究会の技術の全貌を知るため」です。


1つ1つのセミナーの内容はもちろんそれ単体でとても強力な力になります。

しかし、技の原理や可能性をきちんと知るためには様々な技を学ぶことで、色々な切り口から活法を学び、その本質を体得する必要があります。

合気道をやっていての経験上、ツギハギのいいとこ取りでは本質には近づけません。

やはり全体を学ぶことが1番近道です。




もう1つの理由は「皆と対等の話をするため」です。


学んだ技術を使って治療をしていると、必ず対応できない問題にぶつかります。

そこで、この場合はどうするのか?と質問すると◯◯編のセミナーに対応できる技がありますよ!と答えが返ってきます。

習っていないのだから、技の名前を言われても分かりません。



これは答える側が意地悪なのではなく、こちらが全貌を学んでいないのだから当たり前のことです。

何とかして聞き出したい気持ちもありましたが、それは時間やお金を費やして学んでいる仲間や技術を提供してくれている講師の先生方に失礼だと思いました。

レストランに行って自分が食べたいものを何とかしてタダで食べようとはしないのと同じことです。

であれば自分が答えてもらえるようにレベルアップしていくしかありません。

技術が本物であるという確証は既にあるのですから、あとは自分がやるだけです。

技術が本物であるからこそ、ズルをせずに皆と対等の位置まで行きたいと思ったのもあります。

全てはセミナーとして公開されているのですから、自分が覚悟を決めてお金と時間を費やして学べばいいだけのこと。

1度受講し、修了すればセミナーの復習での参加は10分の1くらいの代金で済みます。

仮に技を完全に習得できなかったとしても復習で受講すればいいと考え、とにかく受講することを最優先にした結果が現在です。


全貌が見えると、個別に技術を学んでいた頃よりもより細かく、より幅広く患者の体を分析できるし、技術への気づきもあります。

この場合はどうするのか?と出会ったケース毎に考えていた自分が恥ずかしく感じることもあります。(それはそれで大事なことだし、そのときの等身大の自分だからいいのですが笑)





東北には活法・整動鍼を学んでいる仲間はほとんどいません。
それだけに復習セミナーの機会は貴重であり、自分のレベルアップのためには自分が頑張っていくしかありません。


復習で参加しても学ぶべきことはあり、自分にはまだまだ伸びしろがあるのだと実感できます(笑)

次は自分の世界がどう広がるのか、活法を学ぶことに楽しみしかありません。

定義の違いに気づけ!

言語というのは便利なもので様々な情報を自分以外の人間に伝えるツールになります。

しかしながら同じ言葉であれば1対1対応で同じ意味を表現しているわけではありません。

人によって言葉の定義が微妙に異なることが多く、それを放置したままにしていると話が噛み合わなくなってきます。


ここでいう言葉の定義とは「その人がその言葉をどういうニュアンスで使っているか」ということになります。

言葉の定義はその人の知識、教養、経験から生まれます。

つまり相手との知識、教養、経験の量、質、幅などの要素の差があればあるほど、お互いのコミュニケーションは成立しづらくなります。



例えば最近よく使われる言葉に「力を抜く」「脱力」という言葉があります。

「脱力」の辞書的な意味を調べると「力が抜けること」とありますが、これを「力を抜く」と同じ意味かと問えば、人によって同じという人もいるし、違うという人もいるのが現実です。

ちなみに私は「意味が違う」と考えていて、説明の時には使い分けています。

「力を抜く」は能動的な行為であってまず「力を出す」ことが前提にあります。(「力が入る」のではないので注意)

「力を出す」ことで生まれる筋肉の反発力を吸収したり、緊張感をコントロールするのが「力を抜く」ことであると定義しています。

力が抜けてもフニャフニャ、グニャグニャになったり姿勢が崩れることはなく、力を抜いた状態でも動けるのは必須です。

一方「脱力」はフニャフニャ、グニャグニャの状態で、その状態では動きは生じないものと定義しています。


一般的な感覚で表現すると

力を抜く = 制御可能 = リラックスした体

脱力 = 制御不能 = 気を失った人の体

に近い意味で使っています。



この定義が正しい、間違っているという議論には意味がありません。

正しいか間違っているかを考えてしまう人は言葉に振り回されているだけです。


当然違う意味合いで「力を抜く」「脱力」という言葉を使っている人もいると思います。

細かいニュアンスを考えずに使っている人もいると思います。

しかし、技術として「力を抜く」「脱力」を考えた場合、その言葉を当てはめた技術の細かな定義を持っていないと稽古も質問も議論もできません。

また、その技術を知らない人との会話の中で、自分の持つ定義を相手に伝えないまま話していても理解されづらい上に噛み合わなくて口論になる、などということもよくある光景です。




話を聞く中で相手の言葉の定義を読み取っていくことは昔から「行間を読む」という言葉で表現されています。

これは言語・非言語を問わず相手の言葉や言葉の裏に秘められた様々な情報をを読み取ることであり、時に見せながら、時に隠しながらコミュニケーションするのが「駆け引き」で、これは「見切り」や「以心伝心」にも繋がります。

「言わなくては分からない」「説明がなくては分からない」は武道として遅いと言わざるを得ません。

武道に限らず、商談や渉外、詐欺行為においても言えることなのではないかと思います。




ここまで読んで「意味が分からん!」という方は何回か読んで行間を読み取って頂ければと思います。
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